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引きこもる男たちの苛立ち

5月28日、川崎市登戸でスクールバスを待つ小学生らが次々と刺された事件は、女児と30代の男性が死亡し10人以上がけがをするという凄惨な被害を残しました。

 容疑者の自死で犯行動機の解明にはまだかなりの時間を要しそうですが、警察の調べなどにより容疑者が「ひきこもり」の傾向にあり、社会的孤立・孤独状態であったことが明らかになりつつあります。

 報道によれば、容疑者の親族は電話や面談など都合14回、容疑者の生活について川崎市に相談していたということです。

 同居しているとはいえコミュニケーションはメモのやり取りだけで職にも就かず、伯父夫婦がお小遣いを渡し、食事は伯母が作り億冷蔵庫に作り置く。80代の伯父夫婦と部屋にこもった51歳の容疑者が暮らすこの家は、「8050問題」のまさに典型と言って良いでしょう。

 引き続いて起こった元農林水産事務次官の長男が練馬区の自宅で刺殺された事件では、被害者の父である容疑者が警視庁の調べに対し、川崎市の事件に触れ「長男が子どもたちに危害を加えてはいけないと思った」という趣旨の供述をしていると報じられています。

 被害者は引きこもりがちで自宅から出ようとせず、中学生のころから容疑者や容疑者の妻に暴力を振るうこともあったということです。

 さらに、6月16日に起こった吹田市で交番が襲われ警察官が刺されて拳銃を奪われた事件でも、容疑者は大学卒業後は職を転々とした後、精神障害者保健福祉手帳の交付を受け社会とは繋がりの少ない生活を送っていたことが判っています。

 こうして重なった事件に対し「無差別殺人」と「ひきこもり」や「社会的孤立」を結びつける形の報道が相次ぎ、「中高年のひきこもり」という問題が大きくクローズアップされるようになっています。

 内閣府が今年3月に発表した調査では、40歳から64歳までのひきこもり(6か月以上自室や家からほとんど出ない状態の人)の推定人数は約61万人と推計されています。7割以上が男性で、ひきこもりの期間は7年以上が半数を占めているということです。

 また、15~39歳の引きこもりも推計54万1千人を上回っているとされ、総数では100万人を超えると考えられています。人口100万人の政令市丸々一つ分の人たちが家に引きこもっているこうした状況、特に働き盛りの男性が社会とほとんど繋がりを持たずに生活している状況をどう捉えたらよいのでしょうか。

 作家の橘玲氏は「週刊プレイボーイ」誌(6月10日発売号)の誌面において、引きこもる男たちの追い詰められた思いと社会のとの関係について興味深いコメントを残しています。

 橘氏はこの論考において、作家の上山和樹氏が自身の引きこもり体験を綴った自著『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)に記されている、上山氏の言葉を紹介しています。

 上山氏は、ひきこもりは「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直してしまう状態のことだとしています。その「恐怖」とは「働いていない」、つまりお金がないことで、それは「生きていけない」という生存への不安に繋がっているということです。

 翻って、それまで伯父夫婦から小遣いをもらって暮らしていた(自殺した)登戸の事件の容疑者は、面倒を見てくれていた2人が高齢で介護を受けるようになったことから、自分一人が取り残されたときのことを考えざるを得なくなったのではないか、そう橘氏はこの論考で指摘しています。

 現在の状態が永遠には続いていかないという現実を突きつけられたことは、彼にとってはとてつもない「恐怖」だったにちがいないということです。

 一方、「怒り」というのは自責の念であり、そんな状態に自分を追い込んだ家族への憎悪であり、社会から排除された恨みだと橘氏は説明しています。この得体のしれない怒りはとてつもなく大きく、前述の上山氏はこれを「激怒」と表現しているということです。

 ひきこもりは、一見おとなしくしているように見えても、頭のなかは「激怒」に圧倒されている。そしてこれは重要なことですが、男のひきこもりは(そこから人格を解放してくれる)性愛からも排除されていると氏はしています。

 上山氏は自著に「自分のような人間に、異性とつき合う資格などない」というのは「決定的な挫折感情」であり、耐えられない認識だと記しているということです。性的な葛藤は「本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている」というのが、氏が経験してきた偽らざる思いだということでしょう。

 さて、51歳で伯父の家に居候するほかなくなった無職の男は、自分がこれから定職を見つけて自立するのはきわめて困難であり、女性からの性愛を獲得するのはさらに不可能だと判っていたはずだと橘氏は言います。伯父夫婦が高齢になったことで、この生活がいずれ終わることを悟ったはずだということです。

 もちろん同じような状況に置かれていても、ひきこもりが社会への暴力につながるケースはきわめて稀で、今回の事件を一般化することは慎まなければならないのは自明です。

 都会を中心に100万人もの(他者との人間関係を意識的に断った)ひきこもりと呼ばれる人たちがいるのですから、その中に凶悪な犯罪に手を染めるサイコパスや社会に適応できないパーソナリティ障害の人たちが含まれていても不思議も何でもありません。

 そもそも、「ひきこもり」や「社会的孤立・孤独」を好む者は閑居して悪事をなし、社交的で外出を好む人間は明朗活発で犯罪などは起こさない善人だという話も、あまり根拠のある仮説とは思えません。

 ひきこもる男たちは孤独の中で屈辱や侮辱を受けた過去の体験を絶えず反芻し、慢性的な怒りや恨みが妄想を掻き立てているに違いない。そして、失職や離婚、別離などの喪失体験に屈辱感をつのらせ、いつしか無差別殺人に向かうのだというイメージが社会に漠然とした不安を与えているということなのでしょう。

 今回の事件の場合、容疑者が「ひきこもり」状態であったことは事実かもしれませんが、こうした状況におかれた人々の孤独や絶望が直ちに犯罪に向かうわけではないでしょう。しかし、その一方で、引きこもる彼らの心が社会や自分に対する激しい怒りに満ちていることもまた想像に難くありません。

 今回の事件は、そうした彼らのプレッシャーや被害者意識が精神的な破たんを生み、妄想へとストレートにつながってしまった非常に残念な事例だったということでしょうか。

 ほとんど家から出ないひきこもりのオジサンたちは、たまに見かける近所の人たちにとっては「見た目も怖いし、何を考えているのかわからない不気味な存在」に外なりません。しかし、そこを乗り越えて、上手くいかない世の中と何とか渡りをつけて生きている傷心の彼らと地域社会をつなぐ仕組みができれば、社会の基盤はもう少し安心できるものに変わっていくのかもしれません。



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